峠の酒  (最終回)

作・篠田次郎

「へぇ、そうですかい。私はいろんな国を回りましたがねぇ。いろんな酒も飲みましたがねぇ。旦那さんの酒が一番うまいと思いますよ。こりゃ、お世辞じゃございません。ほんとにそう思ったんですよ。
 よその土地で、これだけのお酒があれば、それなりに評判になっているでしょうね。その評判の後ろに、酒づくりの上手な職人さんがいればそれも評判になっていることでしょう。でもぅ、諸国を全部とは言いませんが、あちこち回りましたが、こんな旨い酒には出会わなかったし、職人さんの評判も聞きませんでしたなぁ」。
 その言い方には自信のような力強さが感じられた。民之助は、その言葉に押されるようにして、古手屋の顔をしっかり見つめた。古手屋が今朝、蔵を訪れた時から、民之助は古手屋にいい印象を持っていなかった。嫌らしい淫らな風貌だと思っていた。太りすぎでふてぶてしく、人を人と思わない狡猾な商人、だから、騙されまいぞとある警戒の目で見ていたのだったが、峠の酒を褒めてくれた言葉に、何か真実がこもっているのを感じて、まじまじと古手屋の顔を見つめた。
 いつも汗ばんでいるように見える額は、聡明な子供顔の名残ではないか。赤く血走った目も、大きい黒い瞳の涼やかな目に見えなくもなかった。ぶくぶくに垂れ下がりそうな頬が引き締まれば、太く幅広い鼻筋が高く通って見えはしまいか。好色そうにひび割れた唇は、女の子のそれのように可愛げだったのではないか。
 人が大勢いた時は、古手屋の大きい体は影のように存在感はなかった。一人になると、蔵の空気に溶け出したようにその存在は広がった。そして民之助が見つめると、凝縮してそこに若く美しく、気働きそうな若者像が見えたような気がした。はっとなって民之助は聞いた。
「古手屋さん、失礼ですがお名前は何と仰るのでしょうか」。
古手屋の表情は狡猾にというのではないが、元のふてぶてしい太った旅商人の顔に変わった。
「新、新っていいますがな。ただの新ですがな」。
 そのとき、奥の間を隔てている襖が開いて、女性が現われた。うこんである。ろうたけて美しい婦人である。うこんは小さい声で民之助に、「お昼のお食事はいかがいたしましょうか」と言った。
「古手屋さん、こんな山の中で何もございませんが、お昼はいかがでしょうか」と聞いた。
 古手屋は、うこんの方を見やったが、視線を凝らすでもなく民之助の方を見て、「これから峠を越さねばならないので、お暇いたしますわ」と答えた。
 それを聞いて、うこんは襖の向こうに消えた。
 民之助は胸が詰まったような感じで、しばらく何も言えなかった。
「結構なお酒をご馳走になりました。それじゃご機嫌よう」と言い、古手屋は、天秤棒に衣類の包みを提げ、帳場を出ると、峠の方へ歩み出した。民之助は帳場の上がりかまちの前に立って古手屋を見送った。「峠道はまだ雪が残っておりますよ」。そう言おうとしたが、声にはならなかった。
 古手屋の姿は、戸口を出るとすぐ見えなくなった。渡りの鳥の鳴き声が長く流れ、その後には、筧の水が落ちる音が聞こえていた。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
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