峠の酒  (連載六)

作・篠田次郎

 埴崎の殿様の跡継ぎが、南国の将軍家のゆかりの家から養子に来ることになった。ざわざわしていた町の雰囲気が治まった。その春、それは数えてみると新という若者が山吹屋にやってきて、二度目の冬が終わり春を迎えた年だったが、新は突然消えたのである。
 男が消えたからといって、大騒ぎになったわけではない。山吹屋が、新という若者をうこんの婿として正式に世に披露したわけではなかった。世間体に言えば、旅の若者が酒づくりの手伝いとして蔵に居続けただけのことであった。それがふた造りの期間だったなどと正確に言えるのは、後、この蔵の主となった民之助だけであろう。若い者同士の愛を注ぎあった一方のうこんは、それがふた冬、約五百日であったという意識はなかった。うこんには、それが永遠だったのである。
 新が居なくなったと知って、うこんは人が変わってしまった。居なくなるなんて信じられなかった。蔵の中も屋敷の中も、それから薪小屋から知る限りの炭焼き小屋、峠に至る道、他にも沢もけもの道も自分で探した。居ない、だが居なくなるはずはない。埴崎近くまで自分で探し歩いた。町中も人づてで探してもらったが、何の消息も得られなかった。
 うこんの愁嘆は峠道沿いの小さい酒蔵の内輪の話であった。人の口の端に上ることはあっても、茶飲み話に過ぎなかった。
 うこんは三ヶ月泣き暮らした後、身籠もっていた子が流れ、後は沈黙の淵に沈んでしまった。
 殿様の跡継ぎのご養子がお国入りするというので、埴崎もご本家のある埴生の町も浮き立っていた。この秋は、天候にも恵まれ、田も畑も豊作だった。民之助は、酒の取り揃えを命じられ、新樽をあつらえて馬二頭を引いて山吹屋を訪れた。初めてのことであった。
 道が坂にかかると、町での生活や遊びの経験では得られない何かがあった。空気が違う。音が違う。かすかな葉ずれの音、渡る鳥の鳴き声、羽ばたき。それは高い空の下で乾いて聞こえた。
 御用達酒の調達であるから、形式が重んじられる。山吹屋の主として、うこんが民之助を迎えた。歳は十七、やつれてはいたが若い娘である。民之助もそれなりの噂は聞いていたが、相見た感じでは汚れた気配は微塵にもない清純な姿であった。民之助は一目で惚れてしまった。
 二頭の馬にそれぞれ四斗樽を振り分けに二本負わせてそれを馬方に引かせて帰った。
 この目出度い行事が切っ掛けで、小売酒屋の末弟の民之助に、山吹屋への婿入りの話が持ち上がった。家格は民之助の家の方が大きいかもしれないが、山吹屋の峠酒の声価は高い。内証も悪くはない。民之助は二十五歳、身を固めねばならない年齢だ。それに、用達酒の仕入れの時にうこんを見て一目惚れしていた。問題はうこんの側だったが、新のいきさつは表沙汰にはなっていたいことだし、周囲は民之助を迎えることに異存はなかった。うこん自身は・・、このことに何の意思も表わさなかっただけである。
 酒づくりが始まるのに間に合わせるように民之助が山吹屋に入った。民之助は気負っていたが、うこんの表情には変化はなかった。それなりに美しく、ただ蔵人とともに酒づくりにいそしむのであった。民之助も見よう見まねで酒づくりを手伝う。
 酒づくりが始まると、蔵は異様なほどのいい香りに溢れる。麹がその元らしい。沈丁花(じんちょうげ)のような柔らかな甘くやさしい香りが室(むろ)の扉からぬくもりとともに漂い出す。麹と蒸し米をもと桶や醪(もろみ)桶に仕込む。仕込み水に沈んだ当座は匂わないが、泡を立て始めると、また花のような果物のような香りが立ち始める。そしてその香りが「にごり」や「澄み酒」にまで残るのだった。山吹屋の酒粕で漬けた漬物は格別だと評判で、新酒が出来た印の杉玉が吊るされると、町からも酒粕を求める人が坂を上がってきた。
 小売酒屋だった民之助は、いろんな酒を知っていた。峠の酒の評判は味がいいからと言われていたが、「この香りの良さが味を引き立てているのだ」と思った。うこんにそれを聞いてみたがうこんは答えなかった。古くから酒づくりを手伝っている者に聞いてみると、「新さんが酒づくりをした時から、こんな香りになったんです」という。「間違いない、この香りが山吹屋の宝なのだ」と確信したが、どうしてその香りが立つのかは見当もつかなかった。
 有り難いことに、民之助が山吹屋に入った後も、峠酒の人気は衰えなかった。うこんは民之助を迎えても、相変わらず押し黙った日々を過ごしていた。麹を手入れする時、それを両手で掬い、顔に押し当てた。そして息を深く吸った。もとや醪が芳香を立てるのを嗅ぎ、うっとりすることもあった。民之助には見せない表情だった。
 うこんは恋い焦がれているのである。麹や醪が立てる匂いに恋い焦がれているのである。その匂いの向こうにあるものに。口には出さないが、それが新という男だと、民之助は確信していた。嫉妬もした、ねたみもした。それに近いことを口にもしてなじったが、うこんは反応しなかった。言い訳もしなかった。麹や醪の香りを嗅ぐ時に見せた表情はどこへやら、能面のように冷たくそして美しい動かない顔しか見せなかった。
 うこんがその年の最後の麹づくりの時、一升ほどの麹を陰干しして紙に包み、桐箱に収め、箪笥の引き分け棚に収めたのを民之助は知っている。うこんは時々それを取り出して嗅いでいるらしい。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
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