峠の酒  (連載五)

作・篠田次郎

 新という若者が山吹屋に住み着いた事実は民之助は見ていない。峠酒の山吹屋の娘が、旅の若者とねんごろになったという話は、町の人々の茶飲み話の一つに過ぎなかった。兄の小売酒屋の部屋住まいである民之助は、家業が忙しいのに追われ、忙しく働き、忙しく遊びもやれただけであって、峠宿の造り酒屋がどうなっているか、気遣う必要はなかった。
 酒を商う一人として、民之助は峠酒も、埴崎の酒も埴生の酒もきき酒はしてみた。言われてみれば峠の「にごり」は甘くすべっこく美味しかった。「澄み酒」は障りなくいくらでも飲め、飲み飽きしないのは間違いない。
 だが、値段が倍もするほど違うだろうか。高い値段は山吹屋の内証と兄の懐を潤しているだけじゃないか。酒についてはそのぐらいしか考えていなかった民之助が、やがてこの山吹屋の主になるなどとはその当時、思いもつかぬ事であった。
 こうして今日も、埴崎から、もっと遠いところからも峠宿の山吹屋に酒を買いに来てくれる客が続いていることは有り難いことだ。その酒の評判を築いてくれたのは新という若者だったのだろうか。新はこの蔵で何をやったのだろうか。
 新が山吹屋の娘うこんとねんごろになり、そこへ居着いてしまったのに、人前にはほとんど顔を見せることはなかった。うこんは冬の間は新や近所の蔵人とともに酒づくりをし、帳場もうこん自身で仕切っていた。峠酒が評判になり、酒を欲しがる人は、小売酒屋も居酒屋も、物好きな飲み手たちも、峠への道を上って酒を買いに来てくれた。商売として酒を扱う人たちは、自分で酒を汲み、通い帳を記し、晦日にはきちんと清算してくれたので手が掛かることはなかった。
「山吹屋の娘は、婿殿が愛しいものだから、人前には出さない」などと言われた。蔵に住み込んでいる婆さんや蔵人の話も、それを裏付けるような話ばかりであった。いい男だったらしい。それだけではない、気立てもよかったのであろうし、うこんをも相当愛していた様子も面白可笑しく伝えられ話の種になった。その一方で、酒づくりには寝る時間も惜しがるほどの熱の入れようだったとも言われた。
 どんな酒づくりの技を持っていたのだろうか。いい男がいい女に惚れ込み酒蔵に迷い込んでそこに居座ったというだけで納得できる話ではない。酒の評判が高まったのだから、それは酒質も変わったのだろう。
 新という若者とうこんの間は、蔵に住み込みの婆やや炭焼きをしながら酒づくりも手伝っている人たちにしか見られてはいなかった。ひょろりと背の高い色白な若者、それにようやく娘らしくなってきた女の子の間は、ままごとか人形遊びのように他愛なく可愛げに見えた。二人は共にいることを願い、酒づくりも二人一緒だった。冬の最中でも暖かい麹室の仕事は汗をかくことが多いので、上半身は裸になってやる。ここでは、新もうこんも、他の蔵人同様、半裸で仕事をしていたが、それもごく自然に見えた。子犬がじゃれ合っているような素朴さであった。もとや醪(もろみ)の泡消し見回りも二人連れだった。野の花に風がまとわるように、蔵の中を見回って歩いた。薪小屋からの薪運び、米蔵からの米の担ぎ出しも二人が組でやった。子鹿を見守りそれを助ける親鹿のように支え合った。周りは山里の風景のように受け入れていた。
 うこんには新が必要であり、新にはうこんが自分の体の一部のようなものであった。この心と体の通い合いが酒の香になったのであろうか。

 陽が高くなるにつれて、酒の客が続いてやってくる。道の途中、ふきのとうを拾ってきた人が、それをみんなに自慢して分けてやる。徳利を持って酒を買いに来た客には、民之助が升で量ってやらねばならない。
 用を済ませて帰る者もいたが、古手屋は、入れ込みの座に残っていた。そこに居るのが当たり前のことのようにかまちに腰を下ろしたままであった。民之助は売上金を手文庫に出し入れしながら、古手屋がなんでここを訪れたのかをいぶかることはあったが、それを深く詮索するところまではしなかった。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
                           富田酒店

E-mail:tomita@vega.ne.jp ->メール