峠の酒  (連載四)

作・篠田次郎

 民之助は目の前にいる古手屋のふてぶてしい一筋縄ではいかないような商いに長けた男の顔を見ながら、実は会ったこともない新という若者がこの山吹屋に迷い込んだ日のことを想像していた。二十年以上も前のことであるが、もっと以前からこの蔵に伝わっている話を聞かされているような感じだった。見たことではない。民之助が誰かに事細やかに聞かされた話でもない。噂のように伝わっている話であった。思えば山吹屋の名が高まったのは、こんな噂が流れてからのことである。
 埴崎の殿様の跡目がどうなるかと町の人々が案じていた頃、峠酒といわれた山吹屋の酒が、殿様の江戸のお方様がえらくお気に召したとかで、蔵の膳部(かしわべ)が人を山吹屋に遣わし、御用達になった。それを民之助の実家がお引き受けする。民之助の兄は、実も利もあり、大喜びであった。並みの値段だった峠酒が一升百文でお城に納められたという。
「にごり」を求めて峠宿に買いに出かける町の人が続く。「にごり」はとろりと甘い。飲める口の人だけでなく、女衆にも飲まれた。蔵から汲んできたばかりの「にごり」は、こぼれんばかりの甘さと美味しさで、お茶の席でも併せて用いられたという。
 菖蒲の節句が過ぎ、暑さがやってくると、今度は山吹屋の「澄み酒」が評判になる。埴生のご本家が将軍家のお客をお迎えした時に供し、格別に褒められたとかいう話が伝わってきた。山吹屋の酒の扱い高が急に増え、民之助も忙しい毎日になったのを覚えている。
「やはり新さんのつくりが良かったのかなぁ」と民之助は独り言を漏らした。
「えっ、何ですって」。古手屋が聞いたが、民之助はそれには答えなかった。
 二人連れの客が帳場に入ってきた。外で筧の水を使っている気配があったので、民之助はそれを察していた。ひいきの居酒屋と熱心な酒通であった。
 民之助は会釈で迎えたが別に動きもしない。客は勝手知ったように洗い場に通り、自分で持参した手樽をゆすぎ洗いしている。桶から「にごり」を自分で汲んでいるのであろう。二人の客は天秤棒に樽をぶら下げて帳場に戻ってきた。古手屋がいるのも構わずに、壁に掛けてある通い帳になにやら書き込み、それを民之助に示し帳面を壁に戻してから上がりかまちに腰を下ろした。
 酒買いの一人が、「この方も酒をお求めにやってこられたのですかい」と話に加わってきた。
 そこで民之助は、いやいやと右手を立てて横に振り、改めて気づいて酒を汲みに蔵へ立った。きき酒用の猪口(ちょこ)に酒を汲んできた民之助は、「うちは造り酒屋ですんで、ちょいときき酒して頂けませんかねぇ」と言いながら、それを古手屋の手に渡した。どろんとしている古手屋の赤い目が光ったように思えた。
 この旅人も、ただ酒にありつきたくて山吹屋に立ち寄ったのだろうと民之助は思った。そして居酒屋と客を相手に取り留めない町の話を交わした。古手屋は、きき猪口の酒をすうっと吸い込むように口に含んでそれを噛むように口を動かし、飲み込んだ。そして「そうですかい」と小さく言ったのが民之助は耳の隅で聞いた。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
                           富田酒店

E-mail:tomita@vega.ne.jp ->メール