峠の酒  (連載三)

作・篠田次郎

 山吹屋は、町中にも街道沿いにも、人の住むところ住まないところ、どこにでもあるような小さな酒蔵だった。埴崎から隣国に抜ける街道を旅する人、物好きに埴崎から買いに来るお客を相手に細々と酒を商っていた。先祖を辿れば、それらしい由緒があるといわれてはいたが、いつのころ、どんなことがあったのかつまびらかではない。峠道を固める役目のものが、酒づくりもやり始めたのであろう。それでも、この峠宿の数戸を束ねる役目を代々受け継いでいた。
 二十年、もうちょっと前になるか、例年になく暑い夏、蔵の主は突然亡くなった。あとには、うこんという娘だけが残った。十五歳で、ようやく女になりかかった美しい娘であった。父の酒づくりの手伝いをしていたので、この年の秋、わずかばかりの米が穫れるとうこんは酒づくりをやることになった。蔵の近くの手伝いの蔵人に助けられながら酒づくりを始めた。
 酒づくりの仕事は朝早く始まり、昼にはあらかた終わってしまう。手伝いの人は自分の家に帰ってしまう。うこんは、訪れる客に酒を売りながら、手が空くと明日の酒づくりの準備をする。
 米は洗って桶に浸してある。午後の仕事は、麹の手入れ、仕込み桶の見回り。桶の中で立ち上がる泡がこぼれないように細竹を束ねたものでかき回す。あとは薪小屋からかまどへ薪を運ぶ仕事が一番の力仕事であった。
 何回目かの薪を洗い場の下屋の軒下に積んでいた時、帳場に人影が動いた気配がした。行ってみると、そこに、筧の水を飲み、残りを捨てている若い男がいた。背が高く見えた。ひょろりとした体つきがそう思わせたのかもしれない。色白で目が大きく黒々と光っている。厚めで小さい唇が女の子のもののようだった。見たことのない顔だった。うこんはどぎまぎして聞いた。「お酒でしょうか」。
 男は小さく、それでもはっきりと「通りすがりのものです」と答えた。土地の言葉ではなかった。しかし着ているものや足ごしらえは旅の人ではない。懐から手ぬぐいを取り出し、口元をぬぐいながら、「薪運びをさせて下さい」と言った。
 うこんはそれには答えず、帳場を通り抜けると薪小屋へ向かった。その男を見た時から、分けがわからなくなってしまっていたのである。応もなく諾もなく、断わるでもなく、体だけが薪小屋へ向かったのである。男はこれも何も言わずに着いてきた。縄を拾い、手早く薪をくくり、うこんの何倍もの量の薪を運んだ。うこんはまた蔵の見回りをはじめた。男はそれにも着いてきた。だがさすがに麹室へは入らなかった。
 早い日暮れがやってきた。うこんは飯炊きの婆やに男に飯を出すように命じた。「旅の人にご飯を出してやって下さい」。まだその時は、男が何という名前なのかを知らなかったのだ。峠宿の山吹屋でなくとも、造り酒屋のような家業のところには、旅に行き暮れた人がよく仮寝の軒を借りることがあったのだ。

 うこんが目を覚ましたのは、蒸しの甘い匂いでだった。いつもはうこんが釜の火を入れる。酒蔵らしい大きさの造り酒屋なら、つくりのすべては蔵人がやる。一番早起きは釜屋である。釜の湯がたぎるころ、他の蔵人が起きてきて、この日の蒸しの仕事になる。
 山吹屋の酒づくりは他の酒屋から見れば、ままごとぐらいの大きさだった。釜も差し渡し二尺五寸(75センチメートル)、他の蔵の甑(こしき)は木桶で人がすっぽり入れるぐらいの大きいものだが、この蔵の甑は、三尺(90センチメートル)角のもので、それを何段にも重ねて使っていた。甑は一枚なら女二人で持て、床に敷いたむしろの上にひっくり返して蒸し米を冷ますことが出来るのだった。
 身支度をしたうこんが洗い場に行くと、甑はもうもうと湯気を上げていた。立ち働いているのは昨日のあの男だった。驚いている時ではない。酒づくりが動いているのだ。
「あのう・・」とうこんは男に声を掛けて、さて、この人は何という名前だったか、それも聞いていないのに気づいた。
「お名前は何と仰るの」。
「新であす。みんな新と呼んでいます」。
 そこへ近所の村人がやってきた。いつもの朝のように、みんなで甑を上から取り外し、蒸し米をむしろに広げはじめた。
 昨夜、新という名の若者は、蔵の会所に寝たのであろう。どんな前歴があったのかわからないが、今朝、釜に火を入れたところをみると、酒づくりの経験があったのだろうか。
 蒸し米を広げ終わるとみんなは麹室に向かう。香ばしい麹を麹ふたから取り出し、仕込み桶へ運び出す。その後へ、まだ暖かい蒸し米を運び込んで布団にくるむ。その作業に、新という若い男は何も命じられないのにもかかわらず、すんなりと加わっていた。一連の忙しさが終わるころ、あたりは明るくなる。そして、会所で朝飯になる。新は四人の蔵人の末座に座った。酒屋に宿を借りた者がみな当然のように酒の仕込みを手伝い、朝食にあずかるのだった。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
                           富田酒店

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