峠の酒  (連載二)

作・篠田次郎

 民之助は古手屋を見ながら、何かいらいらするのを感じた。今朝、初めて会った男であるのに、どこかで会っているような気がしたのである。そしてその記憶でない記憶が、無意識の中で民之助をいらだたせた。
「評判のお酒で、うらやましい限りですなぁ」。粘っこい言い方であった。民之助が醸す「峠」と呼ばれる酒の評判は良かった。「峠」の蔵よりずうっと大きい埴崎や埴生の蔵の酒が一升三十六文から四十文なのに対して、「峠」は八十文から九十文で売れていた。
 山吹屋の酒は二種類ある。一つは「にごり」で、雪の来る前と春いまごろ売り出される。甘くてとろりとしていて、それでいていくらでも飲める美味しい酒という評判なのだ。今日もこれから陽が高くなれば、埴崎から小売酒屋や居酒屋の者が酒を求めに山道を上がって来るであろう。
 もう一つは「峠の澄み酒」で、こちらは五月にならないと売り出さない。売り惜しみしないと来年正月まで持たない。すっきりしていて、埴崎の殿様の御用達酒であり、埴生のご本家には埴崎の分家が決まっただけ届けることになっている。
 民之助の蔵は、つくる酒の量が少ないのに、内証はかなり良かったのだ。
 それはずっと以前からのことではない。民之助がこの山吹屋に来る二、三年ほど前から、急に評判が良くなったのであった。
 民之助は埴崎の大きな小売酒屋の次男坊であった。埴崎の殿様の賄いにも出入りしていた。店は長兄が跡を継ぐことになっており、兄との間に二人の姉を持つ民之助は、可愛がられて育ったが、一生兄を手伝うか、どこかに入り婿の口がなければ、旦那と呼ばれる店の主にはなれない運命だった。
 そのころ、埴崎の殿様のところでは、誰が跡を継ぐかもめていたようだ。江戸にいるお方様になかなか男の子が出来ず、埴生のご本家から養子を迎えるという段になって、突然お世継ぎが生まれたが、夭折してしまった。そういわれていたが、いろいろ複雑な事情も絡まっていたという話だ。
 殿様家は、跡取りの争いが将軍家に漏れないよう腐心する。上手くやらないとお家断絶となり、禄高は召し上げられてしまうからだ。町に忍びの者が入り込んでいるとかいう不可解な噂も流れていた。「あのころだったなぁ、峠の酒が評判になったのは」と、民之助は二十数年前を思い出した。
 目の前にいる古手屋の風貌を見ながら、何か昔が思い出されるのである。三服ほど煙草を吸い、煙管を火鉢の縁に打ち付け、煙草の灰を落として煙管を筒に収めると、男は再び懐から手ぬぐいを取り出すと、それを顔の下から上へこすり上げ、月代(さかやき)までぬぐった。好色そうなまなざしは、長いまつげで囲まれ、赤く充血していた。太い鼻筋が脂ぎっていた。この男に、どんな青春があったのだろう。その顔の後ろに、いくつもの飯盛り女の顔が重なって見えた。
 民之助はこの古手屋の顔の向こうに、この顔とは似つかわしくない別の顔を思い浮かべた。民之助はその顔は見たことがなかったのだが、若くてきびきびと働く酒づくりの上手い誰もが惚れ惚れとするいい男だったという。



○『峠の酒』は「富田通信」20周年のお祝いに篠田次郎先生からいただいた未発表小説です。
○『峠の酒』につきましては、無断複写、無断転載はお断わりいたします。
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