第216号(2005.9.10)
酔いどれ天使は世界にはばたく
 例年だったら新庄祭りが終わるころには秋風が吹き始めるのに、今年はいつまでたっても涼しくなりません。そのせいか、祭りで疲れ果てた気力と体力がなかなか回復せず、何をするのも億劫です。まあ、山車制作期間を入れて2ヶ月近くも酒浸りなんですから無理もない話ですね。
 そこで、今回の富田通信は『酒飲みを励ます本』志賀貢著より抜き書きしてみました。

酔いどれ天使は世界にはばたく(志賀貢著『酒飲みを励ます本』)
 酒を飲み、そして酔う。酔えば気分がよくなり、気持ちが大きくなる。帰りにちょっと寄った酒場を出るころには、「酔ってるゾ、危ないよ。一人で帰れるのか? 電車、乗り越すなヨ」と同僚から言われることにもなる。それでも、ご本人は、「平気、ヘイーキ! 酔ってませんよ、チットモ」と言いはる。
 こんなセリフは、酒飲みの人にとっては、聞きあきていることであろう。ただひたすら、「大丈夫! ダーイジョーブ」なのである。なま酔いで面倒をみるほうになった人だって、なまじっかな酔い方ではないのだが、それはそれ、飲み友達の友情は、この時とばかりに最大限に発揮されるのである。
 いったい、「酔う」というのは、どういうことなのだろうか。実は、酔うのは、酒が興奮作用として働くためか、麻酔作用として働くためなのだが、これが、わかっているようで、わかっていない。
 生理学的にみると、麻酔剤というのは少量では軽い興奮を起こし、大量に用いると麻酔剤になる。すなわち、アルコールの麻酔は、まず脳に関係がある。脳のなかの脳幹網様体という部分の活動を抑制し、さらに大脳皮質のなかの新皮質という部分を抑制するというのである。すると、知性、意志、道徳心などに関係する部分が麻痺し、低次元の(?)原始的、本能的な作用が活発になり、興奮することになるのである。つまり、見せかけの興奮と言ってもいいだろう。
 これはまた、精神的解放と言ってもいい。エッチな話がスラスラできたりするのも、このためである。さらに、低次元の原始的、本能的な部分そのものが麻痺すると、これはもうメチャクチャ。泣き上戸、怒り上戸、ついにはところかまわず眠りこける、ということにもなる。
 こんないくつかの段階があるわけだが、麻酔剤としては、あまり効果のほどは期待できない。というのは、興奮期が長すぎて真の麻酔効果が出てくるまでには大量のアルコールを飲まなくてはならないからだ。したがって、ありとあらゆる酔い、酩酊が登場する。
 イギリスの劇作家、トーマス・ナッシュはブランデーを愛したのだが、こんな「酔いどれの分類」をしている。
 1.跳んだり歌ったり叫んだりする猿上戸。
 2.杯を投げたり怒鳴ったりガラスを割ったりして誰にでもケンカを売る獅子上戸。
 3.ノロマでボケで、眠ったがりの豚上戸。
 4.エラぶったりしながら、ロレツのまわらない羊上戸。
 5.友情に泣き、相手にキスし、「オレは、あんたが好きだ。だのにちっともわかってくれない」という泣き上戸。
 6.酔っているのに、しらふのつもりでいる、マーチン上戸(一世紀の聖者の名)
 7.酔うと、女性とセックスのことばかり考える山羊上戸。
 8.相手を酔わせておいてダマス狐上戸。
             (J・アダムス著『アルコール健康法』)
 日本の伝統芸能の一つ、落語にも酒飲みの話はたくさん登場する。たとえば、親子で禁酒を誓い合ったあげくが、二人ともこっそり飲んでしまって、とうとうこんな会話を交わす。
「おまえみたいな二つも顔のある化け物には、この身代は譲れません」
 と父親が言えば、酔った息子は大笑いして、
「冗談じゃない。こんなグルグルまわる家をもらったってしようがない」
『親子酒』の一席である。
 こうしてみると、ブランデーを飲もうが、日本酒を飲もうが、結果は同じ、酔いに国境はない、ということなのである。



……… 編 集 後 記 ………
○今年の新庄祭りの時、信楽焼の陶芸作家、荒川智君からぐい飲みをもらいました。智君は私と同じ町内の生まれで、信楽へ行って陶芸作家になったのです。去年の新庄祭りに帰ってきた折、「陶芸作家になったんだって? それじゃ、自分が酒を飲んでこれは旨いと思う杯ができたら俺にくれ」といっておいたのです。言った本人はすっかり忘れていたのに律儀にも彼は覚えていたんですね。疲れが取れて体調が回復したら、彼がつくってくれた杯で美酒を飲みたいと思っています。若い陶芸作家、荒川智君の未来に乾杯!



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