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句々酒あり、陶淵明 茶色に枯れしおれたスズランの葉の中から無数の細い茎が林立し、そこに丸く小さな実が朱色に輝いています。もう秋ですねぇ。なんだか歳を取るごとに季節の流れが早くなるような気がします。どうでもいいようなしがらみが増えたからなんでしょうか。それとも歳とともに感受性が鈍り、感動することが少なくなっちまったせいなんでしょうか・・・。 閑話休題。秋といえば、お酒が特においしくなる季節ですよね。そこで今回の富田通信は句々酒あり(どの詩をみても酒が出てくる)といわれた中国の陶淵明について書いてみましょう。 なお、漢詩訳文はすべて牟田哲二著「陶淵明伝」より、引用しました。 陶淵明について 陶淵明(365〜427)は尋陽に生まれ、尋陽に住み、尋陽に死に尋陽に葬られました。尋陽とは揚子江中流にある江西省九江の昔の地名です。 淵明の詩には句々酒ありといわれ、多くの逸話が残っています。酒が熟すると冠を脱いでその紗で漉し、またその冠を平気でかぶっていたとか、彭沢の令となったとき公田全部に酒米を植えようとしたが、妻の懇願でうるち米も半分植えることにしたとか、顔延之の贈った二万銭をそっくり酒屋に渡し酒にして飲んでしまったとか・・・。数え上げればきりがありません。 しかし、淵明は、その詩を読む限り、これらの逸話から来るイメージとはまったくかけ離れた、心深い酒を好んだ人でした。事実、淵明は終生、自分を見つめ続け、悩み苦しみながらも自分に正直に生き抜きました。彼が死ぬ年に書いた自祭文に次のような文があります。 「思うにこの百年(生まれてから死ぬまで)、人はこれをおしみ、その成すなきを恐れ、日をむさぼり、時を惜しみ、世に存しては珍として扱われ、没してはまた追慕せられんことを欲す。ああ! 我は独りわが道を行き、終始世の人とその願いを異にせり。 君寵もわれ光栄とせず。涅(くろそ)めんとすれどわれ豈緇(くろ)まんや。狭き家に身狭に住み、酣飲して詩を作り、天運を知り天命を知る。友がきのよくわれを理解するなきも、今やわれ死せんとして恨なし。」 もちろん、彼とて人の子。若いときには立身出世も夢見ました。高い官位につけば親類縁者が豊かな暮らしができる中国では彼に対する期待は相当に高かったと思います。それでも彼は自分の性(さが)に正直に生き、極貧の中に一生を終えるのです。 淵明の酒 彼の酒は先に紹介した逸話とは違って、ほんとうに静かな酒です。私が好きな「停雲」という詩の一節を紹介します。 深くもやいし動かぬ雲 降り煙る季節の雨 あたりは一面に小暗く 平地の道もとだえた 静かに東軒により 春の濁り酒、独りして撫す よき友は遙かに遠く 首をなで永く立ちつくす 五柳先生伝 陶淵明は理想と現実の重なり合った自画像を持っていました。それが五柳先生伝です。彼は詩を職業としていたのではありません。彼は書きたいという衝動に突き動かされたときにのみ詩や文を作りました。だからこそ彼の作品は読む者の心に深く突き刺さるのでしょう。 最後に五柳先生伝を紹介します。 五柳先生伝 先生は由緒のわからぬ人である。その姓も字もはっきりしない。家のそばに五本の柳があったのでとって号とした。閑静で言葉少なく、栄利を慕わず、読書を好んだが、過度に文字の詮索はしなかった。しかし意に会することがあるといつも欣びのあまり食事さえ忘れた。本来酒を好んだが、家が貧乏で常に手に入れる訳にはいかなかった。親戚友人がその事情を知っていて、時に酒を用意して招くことがあると、出かけて行って飲んだ。飲めば自分の量を尽くし必ず酔うことを心がけた。しかし酔えば席を退き未練を残さなかった。まわりの垣は荒れて風も日も防げぬ有様だった。短い麻の衣を結び合わせて着、一瓢一箪の飲食にさへことかくことがしばしばであったが、心静かに落ち着いていた。常に文章を作り自分独りで楽しみ、同時に大いに自分の志を示した。損得を思うことを忘れ、かくの如くにして生涯を終えた。 |
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栄光冨士・純米大吟醸『袋吊り吟ぎんが』 |
南部杜氏の里、岩手県石鳥谷町の杜氏たちが丹誠込めて作った酒米「吟ぎんが」を使い、南部杜氏・熊谷喜一郎さんが心を込めて仕込んだ純米大吟醸です。 きれいで雑味のないその酒は秋あがり(冬に仕込んだ酒が一夏を蔵で過ごすうちにさらに味が乗る)とともに、さらに磨きが掛かりました。 |
本 の 紹 介 |
篠田次郎著 無明舎出版 1800円(外税) |
こんにち、吟醸酒というものが広く世に認知されるに至ったのは、全部とは言わないまでもかなりの部分、「幻の日本酒を飲む会」というアマチュアグループのお陰であるといっても言い過ぎではないと思います。 |
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