これでいいのか、日本酒! 1月末から2月初めにかけて新庄は冷凍庫に入ったような寒さで、1月30日の最低気温はマイナス14.5度、2月4日にはマイナス16.8度を記録しました。5日はマイナス10.8度でしたが暖かく感じてしまいました。 それにしても、生き物の気配をまったく感じさせない冷え込んだ深夜は、神々しささえ感じさせる風情がありますよね。青白い月の光を受けて、一面に積もった雪は青く輝き、清澄さと静寂さがその度合いを増しながら心と身体にしみこんできます。 ところで最近、お客様から「○○というお酒が欲しくてそれを売っている店に問い合わせたところ、○○1本につき他の銘柄5本を買わないと売らないよっていわれた」とか「○○は一般のお客さんには売らないんだ。飲み屋さんにだったら○○1本につき他の銘柄5本抱き合わせで売るけどねっていわれた」という信じられないような声を頻繁に聞くようになりました。 こりゃ、いったい何なんでしょうね! こんな馬鹿げたことが現実におこっているなんて! 今回はこのことについて考えてみたいと思います。 |
吟醸酒はだれが育てたか 吟醸酒は昭和の初め、品評会の中で生まれました。蔵人たちがただひたすらに技術向上と酒質向上を目指して造り上げた酒です。その後戦争が起き、米を大量に削る吟醸酒は造ることを禁止されました。敗戦から昭和50年頃まではものがあれば売れた時代で、吟醸酒はほとんど市販もされず、ただ品評会用の酒としてひっそりと、しかし蔵人の情熱をもって造り続けられました。 昭和40年代後半、偶然に吟醸酒に出会い、吟醸酒の美味しさに感激し、すっかり吟醸酒のとりこになってしまった、ごく一部の酒屋、料飲店、マニアたちがいました。吟醸酒についてもっと知りたいと思った彼らはやがて、心血を注いで吟醸酒を造っている蔵人の存在を知ります。 もっと旨い酒を造りたいという一点に集約された蔵人の熱意にうたれた彼らは、それこそ身銭を切って吟醸酒を世の中に広めはじめました。もちろん、商売抜きです。あるアマチュアは率先してまだ日本で誰もやったことがない吟醸酒の会を開きました。 |
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ある酒屋は仕入れた吟醸酒が売れなくて(吟醸酒という言葉も一般には知られていなかった時代、吟醸酒はほんとうに売れなかったのです)劣化してしまい、こんな酒を売ったんじゃ蔵元に申し訳ないというので、泣く泣く店の前のドブに捨てました。 またある酒屋はとにかく吟醸酒の素晴らしさを知ってもらうには試飲してもらうに限ると、高価な吟醸酒の口を手をふるわせながら切りました。 私もまた「売れない酒(吟醸酒)を在庫したうえに冷蔵庫まで買うなんて」という無言の圧力?を背中に感じながら酒専用の大型冷蔵庫を買った一人です。 ただ、ここで誤解しないでもらいたいのですが、彼らはみな、自分から進んでこれらのことをやったのです。ですから暗さはみじんも感じられませんでした。愛する吟醸酒が世の中に広まっていくことに喜びを感じていたのです。ですから吟醸酒の会などで顔を合わせると、たとえ同業であってもほんとうに仲良しでした。 どうしてこんなことが起こったのか 吟醸酒があの当時よりもはるかにみんなに知られてきた今、冒頭に書いたような悲しい出来事がどうして起こってきたのでしょうか。ひとつには日本酒の衰退があると思いますが、私には吟醸酒が広く認知されて、商売になりはじめたということにこそ原因があるように思われます。日本酒が売れなくなってきた近年、各酒蔵は生き残りをかけて売れている吟醸酒を造り始めました。 また安売り店の攻勢に悲鳴をあげている小売店もその対策として吟醸酒を置き始めました。 |
しかし吟醸酒が売れているといっても日本酒全体の5%足らずなのです。当然競争が激化します。 これでいいのか、日本酒! こんな馬鹿げたことが、しかも自分の将来を危うくすることが日本酒の世界では平然と、いや自慢げにおこなわれているんですよ! この感覚のズレこそが日本酒をますます暗いものに追い込んでいると気づきもしない! 蔵人の情熱をもって造られた吟醸酒は飲むものに明るさと幸せと、そして生きる希望を与えてくれるものなのです。・・・乾杯! | |
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