第126号(98.3.10)

灘と吟醸酒

 例年今頃の季節、晴れた暖かい日に屋根から落ちる雨だれの陽気な音に春の近さを感じるのですが、今年はそれがありません。信じられないことに、新庄は2月半ば頃から雪が降ってないんですよ! で、屋根の雪もすっかり溶けて消えてしまっていて、雨だれを落とす元がないんですねぇ。田んぼの土も顔を出し始めているんですよ! もう、入学式のころのような風景です。

 信じられないといえば、もう一つ。NHKの朝の連続テレビドラマ「甘辛しゃん」で、なぜか灘の酒蔵が熱心に吟醸酒に取り組んでいるんですよねぇ・・・。そこで、今回の富田通信は灘の酒蔵が吟醸酒に行なった仕打ちを書いてみたいと思います


昭和20年代、30年代 兵庫県灘に吟醸はあったか

 誤解のないように初めに言っておきたいのですが、私は灘に対して何の恨みも持っておりません。それどころかテレビドラマ「甘辛しゃん」のお陰で、日本酒に関心を持つ人が増えると喜んでいたのです。

 ところが、話が進むうちなにやら雲行きが怪しくなってきました。あのドラマを見る限り、灘が吟醸の本場のような、吟醸に熱心に取り組んできたかのような印象を受けます。 これは、今のうちに何とかしなければと思っていた矢先、吟醸酒研究の大御所、篠田次郎さんの「幻の日本酒を飲む会ニュース」に『昭和20年代、30年代 兵庫県灘に吟醸はあったか』という題で、以下の記事が載っていました。

『NHK朝の連続ドラマ「あまからシャン」で主人公が吟醸を醸すところがある。会員から「灘が吟醸の本場か」という問い合わせがきた。これは私見だが「あるはずはない」と答えた。

 会員ならご存じの通り、灘五郷酒造組合(西宮から神戸に至る海岸一帯)は、大正11年、全国清酒品評会をボイコットし、昭和13年に同会が中止されるまで出品していない。それが復活した昭和27年に灘のメーカーも参加しているが、その出品規定には「吟醸を排して・・・」とあるように、だれかが吟醸を極端に嫌った。そして吟醸派とトラブルになり33年をもって瓦解させた。大阪国税局に鑑評会らしいのができるのは、吟醸が高級酒市場をつくったずっと後、57年のことである。

 あのドラマを見ちゃ、吟醸をつくり守った人々は浮かばれまい。バケてでるかもしれない。』

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・・・そうなんですよ! 灘は吟醸の本場どころか、吟醸を徹底的に嫌い、そして吟醸を葬り去ろうとしていたのです。

 では、なぜ灘が吟醸を徹底的に嫌ったのか、その理由を簡単に書いてみましょう。

 いちばんの理由は、吟醸酒は品質を競う品評会や鑑評会の中から生まれたということにあります。

 全国清酒品評会は明治40年に酒造組合(酒蔵の団体)主催で始まりました。品評会は品質を競う場です。また、宣伝力を持たない地方の小さな酒蔵でも優等賞を取れば新聞で取り上げられ、全国にその名を馳せることができます。

 当時(今でもですが)圧倒的な清酒のシェアを誇っていた灘は、初めのうちは優等賞を取っていたのですが、回を重ねるうちに優等賞を取れなくなります。プライドを傷つけられた灘は、「品評会で優等賞を取るために特別に吟味した酒を出品するのは、おかしい。市販されている普通の酒で品評会をするべきだ。それが認められなければ品評会をボイコットする」という抗議文を出し、大正11年に出品を取りやめました。それでも、地方の酒蔵の品質競争の熱意は冷めず、ついに昭和の初め、吟醸酒が生まれたのです。

 品評会は、昭和13年に戦争のため中止になり、昭和27年に復活します。このとき、灘の酒蔵も出品しますが、そのときの審査規則は「精米歩合は70%以下にしてはならない。粕歩合は30%以上にしてはいけない。出品点数は生産数量に比例する。少量貯蔵のものは出品できない」というようなものでした。つまり、吟醸酒を排して、市販酒の品評会を開こうとしたのです。私見ですが、おそらく酒造組合で最大の力を持つ、灘の言い分が通ったのでしょう。

 しかし、品質競争の熱意が冷めない地方の酒蔵は、吟醸酒を出品し続けました。そしてまた、市販酒派対吟醸酒派、つまり灘・伏見対地方の熱意ある酒蔵がぶつかったのです。こうして、品評会はついに昭和33年に消え去るのです。 行き場を失った地方の酒蔵は、以前から国が行なっていた全国新酒鑑評会に吟醸酒の出品をはじめ、今日に至るのです。

 一方、あれほど吟醸酒を嫌い、葬り去ろうとまでした灘や伏見の大手メーカーは、吟醸酒が売れるとみるやいなや、昔のことにはふたをして、圧倒的な資金力でいまや吟醸市場を我がものにしようとしているのです。

 これが、吟醸酒の歴史の事実です。・・・これからどうなるのやら。

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富田通信の
 ホームページができました!
\(~o~)/

 去年の12月、インターネットを始めたことはすでに書きましたが、ひょんなことから、富田通信のホームページができてしまいました。

 できてしまったとは変な言い方ですが、それでも私の実感なのですからしょうがありません。わけを書きます。

 私の学生時代の友人で北海道紋別市に住んでいる山市君というのがいます。彼はいま紋別市の株式会社ソーゴーという印刷会社の印刷部部長をやっていて、パソコンと蝶々にめっぽう詳しい男です。

 その彼に年賀状でインターネットを始めたことを書いたら、さっそくEメール(電話回線を使ってパソコン上で手紙のやりとりができる)がきました。何度かやりとりしているうちに、富田通信の話になり、富田通信インターネット版をつくらないかという申し出がありました。

 インターネット版ったって、こちらはパソコンにさわってまだ1年にもならない素人だし、だいいちインターネットのイの字も分からないんですから、すっかり面食らってしまいました。いや、怖じ気づいたといった方がいいかもしれません。

 そんな私の様子を見透かしてか、彼はサッサと富田通信インターネット版のひな形をつくってしまったんですよ!

 いやぁ、驚いたのなんのって。私が何もしないのに富田通信のホームページができてしまっているんですから・・・。それも想像もできないほどに素晴らしい出来映えで!

 こうなると、いい加減なもので、あれほどインターネット版に消極的だった私が、毎日せっせと過去の富田通信を編集し直して、彼にEメールで送っているんですから。

 山市君は、それを仕事が終わってから毎晩深夜に富田通信のホームページに加えてくれているんですよ!

 イヤァ〜、まったく申し訳ないやら有り難いやらで、もう紋別には足を向けて寝られません。・・・アレ? 世話になった人が多すぎてもう足を向ける方角が・・・こうなったら立ったまま寝なくっちゃ。

 ホームページにはまだ富田通信の一部しか載っていませんが、いずれいままで出した全ての通信を載せてもらうつもりです。ぜひ、見て下さい!

 最後に、山市君、本当にありがとう。そしてこれからもよろしく!

富田通信ホームページ
http://shinjo.dewa.or.jp/tomita/
Eメール
tomita@mail6.dewa.or.jp

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E-mail:tomita@vega.ne.jp ->メール