節分の夜から立春の朝にかけて、新庄は今年一番の吹雪に襲われました。ヒュウウウーっと尻上がりに高くなる物悲しい音に、時折ドォーっという低く不気味な唸り声が混じります。雪女と冬将軍の圧倒的な混成二部合唱・・・。彼らの強大な力の前に人間の小ささを思い知らされる一瞬です。 とはいっても、今年は暖冬で屋根の雪下ろしもまだ一回だけです。2月5日付けの山形新聞夕刊によると新庄の降雪量は去年1月の239cmに対して今年1月は245cmだったそうですが、真冬日(最高気温が氷点下)は去年1月が7日あったのに対して今年1月は1日しかなかったそうです。気温が高いために降った雪が融けるんですねぇ。そういえば例年だったら今の季節、ほとんど聞こえることのない雨だれの音が今も聞こえています。 さて、本題に入りましょう。1月から2月にかけて、酒蔵では大吟醸の仕込みに入ります。いわゆる寒造りです。そこで今回の富田通信はこの「寒造り」について書いてみましょう。 |
それ以前は、彼岸酒、春酒というように秋の彼岸前後から春の彼岸過ぎまで夏の期間を除いてほとんど一年中造っていたそうです。いわれてみれば、昔から冬にしか造らなかったら、あえて寒造りなんて言葉は生まれなかった筈ですものね。 ではどうして、寒造りに集中したのでしょうか。ひとつには、冬に造った酒が秋や春に造った酒よりもはるかに味が良いということがあげられますが、理由はそれだけではありません。 いつの時代もそうですが、物価の安定は政府にとって一番の関心事です。江戸時代、米の値段が物価に及ぼす影響は今よりはるかに大きなものでした。皆さんご存じのように酒を造るには大量の米が必要です。 | |
灘の寒造り 江戸時代中期から幕末にかけて、灘酒は江戸で55%〜70%という圧倒的シェアを占めるようになります。当時の灘酒は他の酒よりも格段に味が優れていたからです。その理由は、 |
(1)宮水の発見 1840年、桜正宗の6代目山邑太左衛門によって発見されました。宮水は、麹菌や酵母の繁殖を助ける成分や酵母の養分となる成分が多く含まれている水です。これによって灘酒は酒母やもろみの醗酵力の強い、つまり腐りにくく、味のしっかりした酒になりました。 (2)水車精米 当時、精米は足踏みによっておこなわれていましたが、灘では、六甲山系の急流を利用した水車精米が発明されました。これにより、大量の、しかも高精白米が得られました。 (3)寒造りへの集中化 細菌的汚染の少ない寒の季節に集中的に酒を造り、酒造期間の短縮化と集約化を計れば、品質的に向上するばかりか経済的に節減できます。また、こうして造った寒酒の優秀性をかざして大消費地江戸に持っていけば、市場を独占することができます。 寒造りの技術は灘によって発展し、今日の清酒づくりの基礎が出来上がりました。 いゃ〜、普段私たちが何気なく使っている寒造りという言葉の裏には、大変な苦労があったんですねぇ。先人の酒造りに対する熱意に乾杯! | |
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