吟醸酒という言葉は、テレビの二日酔防止の薬のコマーシャルソングの中にも出てくるほどに、すっかり一般的になりました。それはそれで、喜ばしいことなのかもしれませんが、反面、吟醸酒の中に脈々と流れている蔵人たちの熱い想いや吟醸酒に惚れ込んだ人々の想いが忘れ去られてしまう危険性もはらんでいます。日本吟醸酒協会会長の篠田次郎先生の言葉を借りれば「『絹のハンカチ』が、あっというまに『ボロ雑巾』に変わってしまう」危険性です。長年、吟醸酒に惚れ込んでやってきた人々には、耐えられないことだと思います。『絹のハンカチ』を『ボロ雑巾』にしないためにも、吟醸酒を取り巻く現在の状況について書くことにしました。 皆さんご存じのように、吟醸酒は昭和の初めに品評会の中で生まれました。蔵人たちが、ただひたすらに、技術向上と酒質向上を目指して造り上げた酒です。そんな酒でしたから、市場性、商品性のことなど勿論、頭にありません。これは、資本主義社会の中にあっては大変にめずらしいことです。 |
当時灘のメーカーは、商品にもならない品評会のためだけの吟醸酒造りは何の意味もない、地方の名もない蔵の酒が多く入賞するのは、灘の地位を危うくするものだとして、品評会をボイコットしていました。そして、昭和35年には、京都・兵庫酒造組合が品評会をぶっ潰してしまったのです。 そんな弾圧にあっても、地方の蔵の吟醸酒への想いは冷めるどころか、国の醸造試験場でやっていた鑑評会への出品という形をとって、酒質向上へと走っていったのです。 昭和40年代後半、偶然に吟醸酒に出会い、吟醸酒の美味しさに感激し、すっかり吟醸酒のとりこになってしまった、ごく一部の酒屋、料飲店、マニアたちが吟醸酒を世の中に広げていきました。しかし、その努力は並み大抵のものではなかったのです。当時の日本酒に対する大方の意見は、「どれを飲んでもたいして違わない」、「2級酒(吟醸酒)のくせになんで特級酒より高いの」などなど、品質よりも価格と銘柄で買っている人が大勢を占めていたのです。かくいう私も昭和50年代の初めに吟醸酒に出会うまでは、そう思っていました。 |
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一本の吟醸酒を買ってもらうのに、1時間も2時間も説明して(なにしろ、今と違って吟醸酒という言葉さえ知られていない時代でしたから)、それでも買ってもらえないことが度々でした。それだけにまた一本の吟醸酒を買ってもらった時の喜びは、酒10本を買ってもらうより遙かに大きいものでした。 |
彼らには、酒を愛する心、酒を守り・育てる心などないのでしょうか? 吟醸酒は単なる商品や儲けの道具ではないはずです。 酒を愛する皆さん! 素晴らしい吟醸酒には、その酒にかけた蔵人たちの熱い想いが脈々と流れていることを忘れないでいてください。 そして、『絹のハンカチ』がいつのまにか『ボロ雑巾』に変わってしまうことのないように、いっしょに吟醸酒浪漫をいつまでも語りつづけていきましょう。
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商 品 案 内
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