吟醸酒物語 秋といえば、食欲の秋。お酒が一段と美味しくなる季節です。汗をながして採ってきた山の幸を肴にしてまず一献・・・、たまりませんねぇ。つくづく新庄の良さを感じる一時です。 今回の富田通信は、芸術の秋にちなんで、お酒の芸術品である吟醸酒の歴史について、あれこれ書いてみたいと思います。(吟醸酒とは何かについては、富田通信17号に書きましたので、そちらをご覧になってください。なお17号を欲しい方はお申し出ください。バックナンバーを差し上げます。) はじめに言葉があった |
『吟醸ということばは、酒質や製造方法を表すことばではなく、酒全般についての単なる誉めことばだった。吟味してつくりました、という程度のことばだった。 酒樽のこもや酒びんのレッテルに、酒倉の商標が描かれている。明治17年商標条例ができるずっと以前からのことである。商標だけではさびしいので、おめでたい図柄とか、ありがたそうな文句なども並べられた。「清酒之精華、百薬之長、芳醇無比、天下無双、名声轟四海、芳香薫万邦」などと。製造元が記されているところには「謹製」とか「吟醸」と書かれている。このように用いられた中から吟醸だけがひとり歩きをはじめた。』とあります。 それでは、今日、私たちが飲んでいる吟醸酒はいつごろ誕生したのでしょうか。 | |
日本醸造協会の主催する全国清酒品評会は、地方の酒造家たちの登龍門であり、ここで賞をとることは酒造家として最高の名誉であるばかりでなく、全国に自分の酒の優秀さを示す絶好の機会でした。 そこで彼らは、賞を取るために、市販酒とは違う品評会用の優れた酒を造ることにしのぎを削るようになりました。こうした中にあって科学技術も格段に進歩していました。 大正末期に切削式の竪型精米機が考案されるやいなや、昭和6年ごろには全国の酒倉に普及していたというのもこういう事情があったためです。 |
そしてついに昭和6、7年ごろに吟醸酒が誕生したのです。ちなみに日本で初めて吟醸酒を誕生させたのは、秋田の新政の四代目の蔵元・佐藤卯兵衛氏といわれています。 売れなかった吟醸酒 | |
しかし、嗜好が変わって辛口酒が見直されてきた昭和40年代の終わりに、品評会用の酒でしかなかった吟醸酒がやっと日の目を見たのです。 そしてついに、昭和50年1月1日に「清酒の内容表示」が実施され、吟醸の表示についての取り決めがなされました。 今まで書いたように吟醸酒は、日本の酒の悠久の歴史の中できわめて新しいタイプの酒です。私は酒呑みとして、また酒屋として、この素晴らしい酒に出会えたことを本当に感謝しています。乾杯!
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